この世は飽和していた
私は幼い頃から天才に憧れていました。
何の天才かは正直なんでもよかったのですが、自分の秘めたる才能を最大限に活用し、爆発させ、自分が得られる限りのありとあらゆる名声と地位を得たいと思っていました。そして、いつかは歴史の教科書に、顔写真つきで載りたいと思っていました。
ただ、自分には何の才能が秘められているのか、そして何を手段にして私の才能を伝えていけばいいかがずっとわかりませんでした。
いわゆる「天才」と呼ばれる人達の概ねは、幼い頃に自分の才能に(周りが?)気づき、表現する手段に出会います。
例)
しかし、私は28才に至る今日まで(そうです。中々の大人です。)、自分の爆発開花開拓維新させるべき才能に気づくことができませんでした。
10代の頃は、まだまだこれから出会うだろうと、未来の自分に希望を託していました。
しかし、そんな感じで日々をすごして早28年。これから自分の相方である何かの才能に気づいたとしても、それを鍛錬する時間はあまり残されていないという訥々とした焦りが私の中に芽生え始めてきたのです。
というのも、
○○の天才現る!!
といった風に鮮烈にデビューする人たちの殆どは、10代と20代だからです。
例外もありますが、メディア等で華々しく取り上げてもらえるギリギリのラインは20代だという観念が私の中にあります。
ということは、、私に残された時間は残り2年。
2年の間に、自分の才能を発掘し、伸ばし、成果をあげないといけない。
(中々きついゾ★)
焦った28才の私は、次第に
「鍛錬する時間を必要とせず、高い道具もいらない、手っ取り早く自分の才能を誇示する手段はないか」
と考え始めました。
(考え方が底抜けの怠惰)
そこで行きついたのが、「執筆」という手段でした。
元々本が好きだったというのもありますが、体作りも必要としないし、道具がペンと紙あるいはパソコン1台で済む。そして発表する場が多いと考えたのです。
自分の秘めたる「文才」を見事に開花させ、執筆活動を通してして『天才現る!!!』と大々的にデビューする妄想をし始めました。
書きたいもの、とか
伝えたいこと、とか
そんな崇高な目的がない私は、まず何を執筆するかを厳選し始めました。執筆と言っても、ジャンルがありますからね。
そこで行き着いたのが「純文学」でした。なぜ純文学の才能を開花させようかと思ったかというと、大衆文学やエッセイや随筆などより、なんか、孤高の天才っぽいからです。
とりあえず芥川賞に応募しよう。
それらを読んで刺激をうけては、自分で物語を構想しました。
話のネタは、次から次へと浮かんできました。
ポンポンポンポンポン
とめどなく溢れてくる言葉と展開。私の脳みそはもはや、創造の泉。
私はやはり天才なのだろうか。
天才なんだろう。
疑心が確信に変わり始めました。
自分の才能の答え合わせ をするように、受賞作を読み進めました。
「おお、これは面白い」
「ふうん、文章にはこんなレトリックもあるのね」
「この発想は天才の私にもなかったわ」
「この発想は私にもできるわ」
「この展開はありがちだよね」
「このネタは私だって考えてたもん」
「この題材だって、私も考え付いたもん」
「この題材で賞がもらえるなら、私が考えたこれだって賞をとれるな」
「このネタ、今私が考えているお話とかぶってるな。他の話にしよう」
「これもだ」
「これも、、、」
答え合わせをして、大事な事実に気づきました。
私が考えていることは、既に先に生きた誰かしらに考えつかれ、やられてしまっている。と。
勝ち目ないジャン。
キリスト誕生以降でだって2017年もたってるのに、早く生まれたら早く生まれただけ、誰もやってないから有利ジャン。
私なんて、2017年間、誰もやっていないこと考えて書かないといけないジャン。
不利ジャン。
隙間産業ジャン。
この世、飽和してるジャン。
そんなこんなで今日も元気にニートです^^