映画『ラ・ラ・ランド』の感想(ネタばれ注意)
アカデミー賞のノミネート数が最多タイ14ノミネートという冠を乗っけて、日本にやってきた映画「ララランド」。
アカデミー賞のノミネート数では、あの不朽の名作「タイタニック」と並んでおります。
若きレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの美しいこと…。
(私、タイタニック大好きなのです。)
タイタニックと言えば、船の先端でレオ様演じるジャックが、ケイト演じるローズの両腕を鳥のように広げ「目を開けてごらん」「あぁジャック…」と微笑みあう画が有名なので、このように真正面を見据える二人の構図は初めて観ました。
はぁ、美しい…。ため息がでるわ。
これ以上はタイタニックの話に風呂敷を広げてしまいそうなので、やめておきます。
ララランドの話に戻ると、このタイタニックに並ぶという情報だけで
「おぉ、なんか凄い映画だなぁ!観たい!」
と思ってしまいますよね。
俗人ホイホイです。
でもほら見て!
この映画チラシのクオリティ!
こだわってるんだろうなぁお金かかってるんだろうなぁと期待しちゃいますよね。
花火打ちあがってるし、踊ってるし、車のうえ飛び跳ねちゃってるし、カラフルでキラキラ。
大娯楽作・臭がプンプンしますよね~!
これまた大好きなミュージカル映画、『マンマ・ミーア』を観たあとのような幸福感に包まれることを期待して、「ハッピーな気持ちをもらいにいこう」と観に行きました。
んで観終わったわけなのですが、
悪い意味で期待を裏切られました。
あらすじをザックリ話すと、
ジャズピアニストを目指すセブ(ライアン・ゴズリング)
女優を目指すミア(エマ・ストーン)
が恋に落ちて、切磋琢磨しながら互いに夢を目指すというお話。
一本の映画が冬・春・夏・秋と5年後の冬の5タームに区切られていて、季節と恋と夢が一緒に移り変わっていく構成。
んで、夢を叶える過程(秋)で二人はすれ違い、5年度の冬ではミアが別の男性と結婚していて「あー別れちゃったんだな」と観客がわかるつくりになっています。
(早速結末を言っちゃう)
そう、ハッピーエンドじゃないんですね。この映画。
いや、ハッピーエンドじゃないとも言い切れないけど。
セブもミアもお互いに夢を叶えてるし、セブとミアからしたらハッピーなエンドかもね。
でも、二人の恋を2時間見守ってきた観客の私からすれば、
「えええええ!別れちゃうの!?あんなに愛し合ってたじゃーん!!!」
と裏切られた気持ちになるわけです。
別にいいんです。別れても。応援してきた我々が納得できるような理由があれば。
でも、ぜーんぜん納得できない。
この映画にイマイチ入り込めなかった最大の要因
なんですけど、展開が不自然なんです。
今思い返しても、「あれ?二人は何で別れたんだっけ?」って感じです。
初めは嫌いあっていた二人が恋に落ちたのにも
ミアが女優になれたのにも
セブがジャズピアニストとして成功できたのにも
二人が別れてしまったことにも
全然、納得できませんでした。
話を展開させることに重きがおかれすぎていて、人の心の機微が無視されている感じ。
ハッピー野朗がグイグイ生きていく映画なら全然気にしないけど(それこそマンマミーアとかね)、挫折と苦悩と別を描こうとしている映画なら、期待通りのハッピーなミュージカル映画じゃない作品を作りたかったなら、そこだけは無視しちゃいけなかったんじゃないかなって。
映画冒頭の、車の上で大勢のダンサーが踊るシーンを削ってでも、なんで二人が別れを決断したのかも、丁寧に描かなきゃいけなかったんじゃないかと思います。
(このシーンのことね。なんならこのシーン、物語の主軸となんら関係ないからね)
あとね。観ててしんどくなったのが、
映画の中で美徳とされている
夢や信念を曲げずに、自らを貫いて努力することの尊さ
というテーマ
私は、自分のやりたいことと人から求められることの折り合いを柔軟につける事って、そんなに悪いことだと思わないんです。
自分のスタイルを曲げてでも、あの椅子に座りたい!
とかって、全然ある話だし、悪いことじゃないし、人間ってそうやって生きていくものじゃないですか。
でも、スタイルを曲げることは、この映画内で悪しきものとして描かれているんです。
初志貫徹こそが素晴らしい、と。
幼い頃から抱いた夢をかなえられる人間って、どれだけいるんでしょ。
きっとそう多くはないよね。
もしくは、自分は○○になりたいんだ!という特段の夢を持っていない、会社から帰ってきて一杯のビールを大切な人と飲んで、子供の安らかな寝顔を見ることが自分の人生。自分の幸せ。っていう感覚で生きている人は、この映画を何を思いながら観るんだろうなぁ、とも思います。
夢がない人は、あるいは夢があるのに邁進できていない人は(私もこれ)、観てて後ろめたくなっちゃうかもしれない。
音楽もキャッチーだし。
カメラワークや映像の美しさも、優秀なクリエイターが情熱を傾けて創ったことがわかるものだし。
ライアン・ゴズリングは相変わらずセクシーだし。
映画としてのクオリティがとても高くて、どこぞのDVD化を待てばいい代物ではなく、1800円かけて(私はレイトショーだから1100円だったけどね)観にいく価値のあるものだと思うんです。
でもね。
手放しに「あー面白かった!最高!」とはどうしても思えませんでした。
時代遅れの宗教
私は常々、不思議に思ってきた。
2017年。
NASAがドえらい技術で、40光年?先に地球によく似た惑星を見つけたり、
人類が2進数と波を操ってインターネットを発明したり、
人間の全細胞をつくりだすことができる万能細胞「iPS細胞」が発見されたり、
そんな超発展時代に、宗教が淘汰されないのは何故か。
このことを本当に不思議に思ってきた。
私の母親はある宗教を信仰していて、私自身その宗教の集まりに参加したり、宗教について調べ、悩み、いっぱいいっぱい考えてきた。
だから、宗教に関する一言は偏見ではなく、実体験に基づく結論だと思っている。
そんな身の上で勝手なことを喋らせて貰えば、宗教はとても時代遅れなものだと思う。
どんな宗教も、人の行動規範を示していたり、人と人が作用する社会で互いに生きやすいよう整備した倫理を教えていたり、良いこと?というか、納得できることを説いている一面があると思う。
<殺生してはいけません>
<悪いことをしてはいけません>
<世界は平和でなければいけません>
大まかに言えば、こんな事を言っていたりもする。
(すみません、だいぶ大まか、、)
これらの教え自体は、素晴らしいものだと思う。
人間を、正しいほうに導いていると思う。
正直「ん?今更それを組織だって教えあう必要ある??」と思ってしまうが
だけど、私は上記の結論(いわゆる教え)に行き着く過程に疑問を抱いてしまう。
例えば、キリスト教で言えば
1、キリストという人が2017年前に存在していた
2、キリストは死んで復活して神になった
3、キリスト(神)が見ているから、悪いことはやめましょう
という事。。ですよね?
(キリスト教の方、ごめんなさい。
キリスト教単体を批判をしているわけではないのです><)
聖書に書かれているこれらの逸話を聞くと
もう、私の頭の中はハテナでいっぱい。
キリストは死んで復活して???????
人間は死んだら復活しない。
これは明らかだと思っています。
(少なくとも、不死の薬が発明されていない2017年時点では。)
でも、キリスト教徒はこれを特段の疑問もなく受け入れているんですよね…?
WHY!? キリシタンPeopleー!!!!
いやね?医療や科学が発達する前のウン千年前に信じるのは、わからなくないんですよ。だれも人間の解剖とかやったことなくて、脳死とか心臓停止とか、そういう知識を誰も持っていない時代なら。
「この人は動かなくなって、一見死んだようにみえるけど、すごいパワーが働いたら再び動くのかもしれない」
そう思うのは、考えられなくない。
あと、地面が揺れだしたら
「ああ!人間が悪い行いをした罰だ!大地が、神が、お怒りなのだー!!」
と思ってしまう気持ちもわかる。わかるよ。
意味わからないもんね。こわいもんね。
なんで地面揺れてんだよって。
怖いし説明できないことは、神 のお仕業だって思うのはなんら愚かだと思わない。
でも繰り返すけど、今は流れて2017年。
大地が揺れるのは、地層のズレあるいは大陸がのっている海洋プレートがひずむから、といったことが解明されている2017年。
なんで、神がお怒りという前提が揺らがないのかな??
なんで、神が存在するということに疑念をもたないのかな??
いや、本当は神というものが存在しないと思っているけど、他の部分が素晴らしいから信仰しているのかな?
1000%、言っていることが正確で正解だと思えないものを、なんで信じ続けることができるのかな????????
教科書だって、1年ごとに頭のいい人たちが協議を重ねて改訂改訂していくのに。
2000年以上前に書かれた教科書はなんで改訂されないのかな?????????
(たまたまキリスト教を挙げてしまったけど、他の宗教に関しても同様の疑問を持っています。)
この世は飽和していた